男を磨くなら、悪女とつきあえ

悪い女とつきあってから、運命が好転。男力UPのための自己啓発ブログ。

女の心に迷いを感じたら

筋肉は誰にも嘘をつかない

 

苦しいとき、
迷ったとき、
疑ったとき、
投げやりになったとき。

男は何をすべきか。

極論を言ってしまえば、
筋トレしかない。

いくら哲学書を読んでも、
いくら仏教書を読んでも、
それらはオナニーみたいなもので、
一時的な気休めにしかならない。

幸福な哲学者がいるだろうか。
快楽に満ちた宗教家がいるだろうか。

あらゆる悩みを解決するのは、
身体でしかない。
さらにいえば、筋肉でしかない。

甘っちょろい理論武装は投げ捨て、
身体そのものの声を聴こう。

人は裏切るが、
筋肉は裏切らない。

やればやっただけ、
筋肉は増強するし、
それは確実に自信につながる。

誤解してほしくないのは、
私は単純なマッチョ主義者ではない。
きわめて合理的な提案をしているだけなのだ。

男の嫉妬はベッドの上で!?

嫉妬をどう処理するかの自問自答

 

「男の嫉妬はベッドの上で解消しなさい」

みたいなことをDJあおいさんのブログで読んだことがある。

素直には同意できない。
しかし、男の急所を突いた言葉である。

今回、交際相手の女性(CK)に、別の恋人がいたことが発覚した。
前回までのブログで、それに対して、私がどう対処しているかを書いた。

彼女が浮気(本気?)で、ほかの男とつながっていたことを
私は自分なりの方法で昇華しようとしている。

しかし、それでも傷はうずく。

あのときに自分に向けて発した言葉はなんだったのか。
あの愛の言葉の数々は、偽装だったのか。

私は自分の筋トレルームで汗を流しながら、
自問自答を続ける。

ベッドでの復讐に女はきっと応える

 

「男の嫉妬はベッドで」か。。

認めたくはないが、その通りかもしれない。
たとえ、私がCKをいくら糾弾したところで、
過去は変えられないし、
CKが仮に私に謝罪しても、その真意までは測れない。

ベッドの上で嫉妬を解消する。
それはつまり、激しい衝動を彼女の身体と精神にぶつけることだ。
女性のすべてとは限らないが、
少なくともCKはそれに燃えて応えるだろう。

わるいことをしていて、それを責められているのに、
燃えるというのは、たいへん不誠実な行為のようにも思える。
しかし、それが女というものだ。
どんなに理路整然とした言い訳をする女でも、
ベッドの上では、本性が出る。

そうなれば、あとは、女の盛り上がりを受け止め、
じっくりとベッドで復讐するか、
あとは、何もなかった風にこれまでどおりのプレイをするか否かの、
二者択一しかない。

私は何もなかったかのように行為できるほど、
淡泊な人間ではない。
当然、「お仕置き」は施すであろう。

CKは抵抗しながらも、これに応えるだろう。
いや、積極的にこれに応戦するはずだ。
それが女の不思議なところだ。

私は「今日は許さないよ」と宣言して、
彼女を楽しませ、自分も全力で責め立てるしかない。

たしかに、ベッドの外での嫉妬は何も生まない。
彼女に非があったとしても、
それを糾弾することは、
結局は、男の格を下げるだけだ。

男はつらいよ
女は謎である。

憎んでいるのは、まだ愛している証拠

頭はごまかせても、心はごまかせない

 

男と女は不思議である。
憎みつつ、うらみつつ、そして寄り添う。

あなたがもし、交際中の女、男を憎んでいるなら、
それは相手を愛している証拠だ。


あなたが別れた女、男を憎んでいるなら、
それはまだ愛している証拠だ。

ぜひとも交際を続けるべきだし、
別れてしまっていたら、できれば復縁した方がいい。

頭はごまかせるが、心は正直だ。
心はうそをつけない。

だから、自分の心は裏切ってはいけない。

当然、血をながすことになるだろう。

疑い、悩み、苦しみ続けるだろう。

しかし、それが人生というものではないだろうか。

 

ほんの少しの勇気があなたを変える

 

平穏でのんびりしたスローな恋愛を私は否定しない。
あたたかで、ほのぼのした日だまりのような家庭はすばらしい。

しかし、それでは飽き足らない人々もいる。

この世に生きている実存。
生きている悦び、歓喜。
確かに、自分は生きているという実感。
それを味あわないで生きるむなしさ。

愛にもいろいろある。
血を流しても得たい人がいるとしよう。
それを得るにはリスクをとるべきだ。
私はそんな道を選ぶ。

偽ってはいけない。
ほんとうの自分を偽ってはいけない。
恐怖から逃げてはいけない。

勇気。
ほんの少しの勇気が持てれば、
あなたは最愛の人を手にすることができる。

あなたがどんな選択をするか、とてもエキサイティングな作業だ。

悪い女は私自身の投影図

裏切りツイートにがく然

 

あるとき、ひょんなことから、交際中の女性(CK)の匿名ツイートを見た。

「やれればそれでよかったんでしょ」
「いざとなったら、逃げる男」

前後の文脈を見ると、どうやら、ほかにつきあっている男がいて、
その男とのいざこざの憂さを晴らしている模様だ。


またか。


また、私に偽って、ほかの男とつるんでいるのか。
しかも今度は根が深そうだ。

お相手は、同業者の作家らしい。
しかも、私より、売れている。

怒り、嫉妬、そして脱力。

これを見過ごすか、追求するか。あるいは、別れるか。

私は迷った。
見過ごしては、ストレスがたまる。
追求しても言い逃れをするだろう。

では、別れるか。

それが賢明である。
賢い自立した男なら、そうするだろう。

しかし、結果として、私はまだCKといる。

なぜか。

これは絶好の機会だからである。

 

彼女は私の鏡、分身


CKはある意味、正直なのである。
私に不足した部分をほかの男で補っていたのだ。
私は自分の力量不足を棚に上げて、
CKの不貞を責めるのは、大人げない。

もちろん傷ついたし、傷はなかなか癒えない。
しかし、この傷を私は自分のポジティブなパワーに変換する道を選んだ。

CKは私の鏡なのだ。
弱い私の分身であり、投影図なのだ。

CKの裏切りは、私の私自身に対する裏切りに等しい。

ならば、どうするか。

私は決意した。
もっと強くなろうと。
もっと強くしなやかに、たくましい男に。

それが最善のソリューションである。

だから、私はCKをそばに置く。
そばに置くことが、CKへの復讐だし、
なにより私自身への復讐となるだろう。

もし、CKがいい女になったとしたら、
それは私がより男を上げたことを意味する。

だから、いまは、CKを手放さない。